モドル

贅沢な迷い人




「何だ、ありゃあ」
 思わず声を上げると、勇吹が彼もまた同じものを見ていたと知る動揺もない声で、それに応じた。
「ああ、修学旅行だね」
 改札口からホームを目にした途端に2・3番線を黒い服の集団が丸ごと占拠しているのがわかる。整然とした中に僅かな造反を内包していて、それが一層蠢いているような印象を彼に与えた。
「なあ、俺ら何番線?」
 勇吹と再会してからは彼に任せっきりで気にもしたことがなかったくせに、この時は多少引き攣る顔面と共に拘りを持って気にしている。嫌な予感の波に晒されていた。
 連れが電光掲示板を見上げてから彼に脇へ移動しようと合図するまでがいやに長かった。
 気のせいなのかもしれないが。
 それからようやく、改札口の真ん前に突っ立って、通行の邪魔になっている自分を自覚する。
「選択肢は4つ。
 1、このまま君の予想通りに参加
 2、別のホームから別方向へ移動
 3、次の電車を待ちつつここで時間を潰す
 4、引き返す
 どれがいい?」
「2」
「OK、じゃ、そうしよっか」
 連中に押し潰されるのもぎゃーぎゃー煩い中に飛び込むのもご免で、暇をこれ以上持て余すのも嫌で、この街にはもう飽きて、動いていればちょっとはマシ程度の選択を、勇吹は理由もなく了承した。
「えーっと、じゃあ行き先は…」
「1番早いのでいいだろ?」
「そうだね」
 ガイドブックを取り出して行き先を確認しようとした勇吹は、彼の一言であっさりと荷物に仕舞い直した。
「別に、お前が行きてートコあんならそっちでいいけど?」
 いつも自分の要求が通るから、勇吹がどうしたいのか、偶に分からなくなる。
 単に行きたい所がないんだろう。
 そう思っても、本当なら勇吹のしたいことに付き合うって話だった筈だというのに勇吹が余りにも何も言わないから、逆に付き合わせてるような気にもなる。
「んー、特に俺の希望はないよ。…1番早いのは、ここか」
「てきとーに良さそうな所で降りよーぜ」
「うん」
 軽く頷いた勇吹の口元が、不意に笑みで歪んだ。
「何?」
「うん?…何でもない」
「言えよ」
「大した事じゃないんだってば。カルノだなーと思って」
「んだそりゃ」
「何となくね」
 自分だけで納得して、答えながらはぐらかす。
 得意の器用な真似を、今は追及する気になれなかった。
 俺らしい。
 それだけで、勇吹が嬉しそうに笑う。
 滅多に笑わない勇吹が、たったそれだけの事で、笑う。
 俺が俺らしいと、嬉しい。
 嬉しくなる俺らしさ?
 それはどんなものだろうと、訊けば答えてくれるかもしれないのに、頭の中で反芻した。



 けたたましいブレーキ音に我に返る。
 はっと顔を上げると、黒々とした群れが電車の隙間から吸い上げられていく所だった。怒鳴られながらのろのろと歩いては、ぺちゃくちゃしゃべり続けてる。
「楽しそうだね」
 感慨を感じさせない声が、台詞だけはそう思っているかのような音の羅列を並べ立てた。
 勇吹の視線は大荷物の学生服に向けられていて、彼らの事を指していると分かるのは容易だった。
 カルノもまた、再び彼らに目線を戻す。
 動きが取れない位に詰め込まれて鬩ぎあって怒鳴られるのは、彼なら即行でパスだ。
 でもいくら怒られても堪えた様子もなく不満だらけの表情で、それでいて話すのを止めない彼らは、嫌そうに顔を歪めた後で直ぐに笑う。どこか浮き足立っている。
 確かに、楽しんでるのかもしれない。
「イブキ」
「ん?」
「やっぱあん中に突っ込むとか言うんなら、ぜってー却下」
「…いや、そういうんじゃないんだけどさ」
 嘆息は呆れなのか諦めなのか。
 勇吹とそう変わらない連中に何を思ったかなんて知らないけど、どうせ、うっとおしい事に決まってる。
 これ以上横で足元を崩してないでとっとと戻ってくればいいのに、勇吹はカルノの思惑に逆らって深い場所へ墜落していく。
「修学旅行の楽しさって“いつもと違う”ってことだと思うんだよ。
 いつも学校で会う人達の別の顔を見て、いつもと違うことをするのがさ。
 知らない場所っていうオプション付けて、一緒に平日の街を歩くとか、お風呂入ったり、寝惚けたり、そういうのが、1番楽しかった気がする」
 どこも楽しそうな影など見えない横顔がぽつりぽつりと呟く内に、黒い集団は電車に詰め直されて発車のベルが耳を裂く。
 ドアが閉まるのを見送る勇吹には捉えられることもなく、傍らの呟きは、あっさりホームに捨てられた。

 ――― 知ってる

 何の変哲もない言葉。
 言い直す気など最初からない捨てられるための呟き。

 ひとりで街を歩いてた。
 トーキョーの色んな街を歩いて、違うもんだなーとかぼんやり見ていた。
 でも結局、何処も変わらないように思う。
 当たり前だ。
 興味ないとこなんか頭も足も向かないし、大体行くような場所は決まってる。
 似たよーなとこで似たよーなモン見て、ちょっと位違ったって大して変わらない。
 初めての場所を歩く時が1番面白い気がする。
 何処に何があるのか分からなくて、無駄足ばっか踏んで、さっきも通ったような場所に出て、じゃあ次はどっち行ったらいいのか考えてる時。
 疲れてベッドに沈んでしまえば、余計な事は浮かんで来ない。
 でも結局、建物も道も歩く奴等も、何処も変わらないように思う。
 田舎は田舎の、都会は都会の、フィルターが掛かるだけ。
 何処かで新しい店が開いても、何処かが工事中で通れなくても、雨で何かが延期になっても、俺は変わらない。関係がない。
 そんなのに左右される住んでる奴等と関わりを持たない俺に、何がどう変わったって、ないのと同じ。
 何処も同じ。
 ただ暇潰しで迷うためだけに、新しい場所へと向かう。

 違うのが、楽しい。

 そんなのは知ってる。
 閉じ込められた魔法修行三昧の“いつも”と違っても、もう楽しくない。
 飽きた。

 楽しいのは。

 喫茶店の変な人形を変だと言ったら、「何であんなのにしたんだろうね」としみじみ同意が返って来ることとか

 真面目な顔した連れが看板に顔ぶつけて呻いてることとか

 可笑しくて堪らない。

 あと

 あいつが珍しく笑ったのとか

 大抵さっぱり訳分かんねー理由だから面白くもないんだけど。
 多分楽しいんだと思う。
 笑いたいような気もするけど、笑うとこじゃねェ気もするから多分なんだけど。
 ……嬉しい?
 よく、わかんねーよ。


 いつか、これにも飽きンのかな。





 適当な場所で電車を降りて、メシ食ってからホテルを探した。
 変わり映えしない部屋に荷物を置いて、いる物だけ選り分ける。
 パスポートと財布。
 とりあえず、これだけあればいい。
 上着のポケットに無造作に捩じ込むと、振り返った先で勇吹がぼーっと立っていた。
 どこかで見たようなベッドの狭間で、心此処にあらずといった風体で、視線の先もそこにあるだけであって意味は無い。
「イブキ?」
「…あっ、ああ…うん」
 不明瞭な返事ともつかない返事と共に、彼もまた荷物から財布を抜き取ろうとベッドのバッグに屈み込んだ。
 どう見ても促されたからやってる仕草。
「あのな」
 腕を掴むと、肩越しに黒い瞳が見上げてくる。
 黒く滲むように縁取られた虹彩を鳶色と言うのか。
 そういうことは興味がないけど、何故かそれさえ黒く見える。
 瞬きを1つした。
「カルノ?」
「お前、疲れてねェ?」
「え?」
「疲れてんじゃねーのかって言ってんだよ、俺は」
 見開かれた目に彼の姿が映る。
 腕を放すとその目が伏せられ、自由になった指先が、もし、と仮定を紡ぐ。

 もし今、この頬に触れたら、また見上げてくるだろうか?

「ごめん」
「…何謝ってんの?」
 僅かな遅れを不審に思うこともなく、顔すら伏せられる。
「気、つかわせちゃったみたいだから」
 下げた頭をこめかみから右手が掴んで、力づくで顔を上げさせた。
「馬鹿かテメー。何で俺がそんな事すんだ?
 お前が気ィつかって無理してんのがうざってェって言ってんだよ」
 黒い瞳に、明らかさまに不機嫌な自分が大きく映る。
 髪に差し入れられた指を嫌がるでもなく、無防備な唇が問いを乗せる。
「無理…してた?」
「してたろ」
 瞳の中の自分は憮然として答えた。
 細かな表情を、鏡のように彼へ返す。
 この黒い鏡を覗き込み、そこに何かが浮かびはしないかと息を詰めた。
 自分しか見えないのに、鏡の奥から……何かが。
「そっか」
 また逸らされた。
 もう手を離せと思うのに、もうちょっとと指が駄々を捏ね始める。
 もう1秒長く。
 もう1cm広く。

 引き込まれている。

 知って、カルノは自ら身を引いた。
 そこで初めて、自分が不自然な程近くにいたのだと気付く。
 自分の表情の違いを見分けられる位近く、勇吹の表情が分からない位近く、ほんの少しの後押しで引き返せなくなる程近くに。
 身を翻して、カルノは自分用のベッドに陣取り、TVを点けた。
 適当にチャンネルを回しても、ワイドショーか変なドラマをしてる位で、彼の興味は引かれない。画面は次々切り替わる。
 背後の気配はベッドから荷物を下ろしていて、彼もまた、そこで落ち着いているようだった。
 もう怖い場所で緊張するために出て行く気は失せたようだ。
 そうと察し、カルノはTVの電源を切って、リモコンと共に観る意思を放り出す。
 最初からあるとは言えなかったものを、完全に投げてしまった。
 ベッドに自分も放り投げるとスプリングが軋んだ悲鳴を上げて、後はただ、静寂が狭い部屋中に満ちた。
 疼く指を握り込んで、足りないから左手を添えて押さえてみる。
 時間が経てばこの疼きが遠のくことは、もう彼も知っていた。
 その間ずっと見ないように、考えないようにしていれば、これはやがて眠りに就く。
 いずれ起きるのは知っていても、消し去れないから眠らせておく。
 触れたがってるのは自覚している。
 体温は落ち着くから。
 勇吹が側で生きているのに安心する。
 変わらない体温。
 緩やかな呼吸。
 筋肉の動きに自分とは別の意思を感じる。
 安心する。
 それがあるってことがどれだけ大事なことだったのか、今なら分かる。
 彼女のそれがどんなものだったのか。
 知る機会を永遠に失って、後悔に似たものが彼の衝動を更に煽った。
 触らなくても、腕や腹やそんな肉を越えて常に触れ合っていた。
 だから今更なんだけど。
 もう2度と。
 そればかりが焼き付けられる。
 もう2度と。
 こいつのも、知ることができなくなるかもしれない。
 不意に掻き消えた彼女のように。

 でも

 触れるのはやっぱり変だろうと、彼は抑えることを選びつづけている。
 眠れ。
 そう言い聞かせ、目を瞑る。

「カルノ、寝た?」

 密やかな声。
 薄っすらと瞼を開けると躊躇う影が目に映った。
「何?」
 少し寝惚けた声になって、勇吹が益々済まなそうにする。
「ごめん、CD借りていい?」
「勝手に漁れ」
 言うと同時に欠伸が出た。
 カルノ自身も眠りに就こうとしてたらしい。
 部屋はまだ明るく眩しくて、それが余計に目を開けていられなくする。
 窓に背を向けてまた目を閉じた。
 うつらうつらしてる内にカーテンの閉じる音がして、薄暗さが彼の眠りを促す。
 温感が彼から消えていく。
 寒いも温かいもなくなって、暗い場所へどんどんと沈み込む。
 戻っていく。
 誰かの居た、懐かしいあの暗がりへ。



 唐突に目覚めた。
 穴倉から抜けたように意識がくっきり切り替わる。
 いい夢も嫌な夢も見なかった。
 見たかもしれないけど覚えてはいない。
 満ち足りたいい気分。
 口元に、笑みさえ浮かぶ。
 天井は日に明るくて、目に眩しい。
 なのに彼は、自分の辺りに暗がりを見た。
 違和感に顔を巡らすと、ベッド端に何故か勇吹が腰掛けていて、驚いたカルノは目を見開いた。
「イブキ?」
 寝起きの声は掠れてる。
 唾をごくんと飲み干して喉を湿らせ、彼の連れを窺った。
 遠い車の音も聞こえない静けさの中、擦れるのに似た小さな雑音だけが彼の耳元から漏れていた。カルノが貸したCDのノイズ。
 ヘッドフォンをしてても声は聞こえる。
 使い慣れた持ち主には、そんなこと、分かりきっていた。
 だから勇吹に彼の声が聞こえていないとすれば、気持ちが外を締め出しているということだと推し量る。
 果たして、彼の意識は内へと深く潜り込んでいた。
 丸めた背中が浅い呼吸で上下している。
 流れるCDを聞き流し、座ったままで夢を見ていた。
「何してんだ、お前…」
 答えが無いのを承知で、呆れた声でつい問い掛けた。
 彼のベッドはすぐ隣りで、眠いならとっととそっちで寝ればいい。
 頭を掻きながら身を起こしたら、薄い掛け布団が剥れ落ちた。
 忍び寄る寒気に温もりを追い、カルノは膝を立てて布団に顔を埋める。
 眠さはないけど、心地良くて目を閉じた。
 けれどすぐにまた瞳を現す。
 掛けた覚えのない布団。
 寝るつもりではなかったから、シーツを捲りもせずにそのまま上に乗っかった筈だった。
 ベッドの端では彼とは違う肌色が、規則的に上下する。
 短く刈り込んだ黒髪が襟元から首の筋を露わにしていて、見詰めるカルノはその歪曲が続くとどれだけそこを痛めるのか知っていた。
 彼はもう眠くない。
 起きて備え付けの茶でも飲んでれば、すぐに体も温まる。
 背に手を伸ばす。
 マットレスに横たえてやろうとして、指を握る。
 肩を掴んで後ろに引いて?
 衝撃を与えないようにこの手に抱いて?
 重みを支えてゆっくりとベッドに、横たえて?
 それから?

 馬鹿らしい。

 そこまで親切にしてやる必要はないだろう。
 起きそうにないし、動かすのも面倒臭いし、倒れて来たら痛い目を見るのはこっちだっていうだけで、勝手に倒れるんなら、別に……それで。
 彼は反対端からベッドを下りようとして、眠る勇吹に背を向けた。
 体重で沈み込むマットが勇吹を倒さないように側を避けて。
 なのにどうして。

 こいつは倒れて来たりするんだろう。

 思わず脱力しそうな息を吐いた。
 体中から空気を吐き出してしまおうとする体の後ろから、浅く繰り返す寝息が響いてくる。

 背中が温かい。

 何だか笑いたくなってくる。
 こっちの思惑なんか台無しにして何食わぬ顔で寝こけてる。
 知ったことじゃないとばかりに手前の都合を要求して、それで当たり前みたいに平然としてる。
 起きてる時と全然変わらない。
 このまま彼が体をずらせばあっさり倒れてそれっきり。
 簡単に除けられるだけの強要は、拒否も拘りなく受け容れて、単に彼から離れて終わる。
 押し付けを感じる間もなく、この温かさは簡単にすり抜け消える。

 だったらどうして断れるよ。

 笑いたくなる。
 可笑しい事なんか何もないんだけど。
 いや、可笑しいのかな。
 ここに居るのは悪意と害意に怯えていながら選りによって悪魔を孕んだ俺を呼ぶような馬鹿で、側で安心したみたいに眠ってる。
 背中を貸せって。
 何でベッドの端なんかで。
 可笑しいだろう?
 笑える。

 楽しい?

 さあな。
 わけ分かんな過ぎて笑えるのは確かだけど。
 ンな奴、他に知んねーし。

 じゃあ、慣れたら

 慣れたらもう



 平坦で 代わり映えなく だらだらと


 背中が温かい。

 これをもう、嬉しくならない?



 首の後ろ襟元に、押し当てられる肌の気配。
 短い毛束がゆっくりと、擽り広がっていく。
 額の温かさ、鼻の冷たさ、頬の滑らかさ。
 一遍に感じたカルノの体が強張る。
 身を引こうとしたカルノを縫い止める声。

「カルノ」

 意識のない者の声ではなかった。

「もう少しだけ…」

 狙いすましたようなあのタイミング。
 離れようとしたのに離れられなくなった。
 偶然は故意。
 彼が嫌だと言えばそれまでのこと。
 こんな風に触れるのは変だろう。
 でも安心するのも知っている。
 背中に伝わる緩やかな呼吸、安堵の気配。

 早まる鼓動。
 禁じる意思。

 これは 何だ

 触れたがる指、いや体。
 頭の隅から隅まで満たす声。

 変だろ それは


 背中の安堵が嬉しくて、触れたらきっと安心する。


 側にいる


 触れたらきっと、もっと触れたい。


 でもそれは




 手掛かりは掴んでいない。
 何処にも行き先がない。
 先など何も見えない。
 暇ばかりが腐る程溢れ返って管を巻く。

 この安息。

 はっきりとしないものを厭い
 このまま腕にするだけで彼我の答えは分かるのに


 贅沢にもそれを惜しんだ。



The end.

執筆:栖月びぃ(Burn Bag B)

モドル