+++ 透きとおる温度 +++ 歩道と公園を区切る柵は座るには丁度いい高さだった。 薄暗くなり始めた空は黄色っぽいオレンジと藍が入り混じって、まだ明るいのかもう暗いのかよく分からない。隣りの黒髪にもオレンジが差しているように思う。 公園の入り口に街灯が点いた。 彼へと伸びた自分の影が、それでも触れることなく地を這う様に、皮肉を思う。 道路を挟んだ向こう側のコンビニで売られているのと全く同じ肉まんが、手の中で温かいのだけはよく分かる。皮の外っ面だけが冷たくて中が熱い。冷める前に食べてしまおう。 勇吹が缶コーヒーを1口すすり、ふぅーっと息を吐いた。 それが白くならないから、寒くなるのはまだこれからなのだ。 実際に昼の暖かさはまだどこかしら残っていて、奇妙に寂しいようで穏やかで、さっきのことが嘘のようだ。 彼らの5m横で不恰好な石柱が門となって公園の入り口を作り、その足元の缶に差された花がささやかな風に揺れる。 それを見た時から嫌な予感はしていた。 なのに彼にここで待ってろと告げた勇吹が返事も待たず横断歩道を行ってしまう。仕方なく不承不承でそこにいた。 日本に来てから時々見掛けるそれが、何であるのか。 訊かなくてもすぐに知れた。 大抵死人が立ってるからだ。 即席の花瓶の前を通り、流石にすぐ隣りに立つ気はしなくて、数mおいて柵に腰掛けた。 明るい青空がそんな短い間に色を変え始め、夕暮れが近付いてくる。 それにつれて、案の定、暗い人影が滲み出てくる。俯き加減で車道に向かって佇んでいた。黒い髪は長く、上下の黒い服が彼女を影のように見せていた。前を通る車や歩く人影を羨み妬む上目使い。 係わり合う気はなかった。 なのに女がチャリに乗ったガキを車の前へ押そうなどとするから、余計な手を出してしまう。 頭から車道に傾いだ子供は空間が歪んだような浮遊感に目を見張った。倒れかけたと思ったのに、気が付いたら両足を地に付けて自転車に跨っていた。そんな心の動きが分かる程きょろきょろと戸惑った視線を車道と歩道に投げ掛けて、結局首を傾げながら自転車をこいで走り去る。 女が首をこちらに向けた。恨む視線が疎ましい。 その足元に闇がわだかまり、地を這う影が、彼へと伸びた。 次の瞬間、真横から密着する程の距離から上目使いで彼を見詰めた。 影は影を生まないのか。 女は光を遮らず、力を落とし始めた太陽は変わらずカルノを照らしていた。 長い黒髪はぞろりとして、暗く歪んだ眼差しが、ただ気持ち悪かった。小さく開閉する色褪せた唇がじっとりと絡みつく音を垂れ流して、彼を更に不快にする。言葉を紡ぐ度に目も鼻も口もぐずぐずひしゃげて広がり流れて、無様な粘土を思わせる。 「何言ってんのか分かんねーよ」 だから訴えても無駄なのだと言っても女は聞かない。 分からないのではない。 聞いていないのだ。 日本語は分からない。 けれどひたすら“よこせ”と言ってる気がした。 女の手が彼に触れようと、指の間接が水飴になったみたいに融けて伸び、先端に指先をぶら提げる。喉に絡む湿ったような冷たさにおぞ気が立った。締め上げる異形の指を嫌悪とともに掴み。 「ナンパ?」 気負わない英語が間に入る。 コンビニの袋を下げた勇吹だった。 カルノの前に立った彼は無防備に見える。だが決してそうではないと知る少年は、軽口に眉を顰めただけだった。 「こっちはお断りだってのに、しつけーんだよ」 喉に絡んだ指を引き剥がしながら吐き捨てるように言うと、勇吹は彼女に向き直って緩やかに笑い掛けた。日本語で何かを話している。背を向けられたカルノに彼の表情は見えないけれど、どんな顔で笑っているのか、記憶が彼にそれを見せた。 女が何か仕掛ける前に引き寄せようと側に立つ。 おぞ気の走る指先に、触れさせるのも嫌だった。 飲み食いをしている内にすっかりと日が落ちてしまった。街灯とコンビニの光の余波だけが彼らを照らす。服の皺に髪の毛先にその光量では振り払えない闇色の夜が差し込んでいた。 「なあ、さっきのってあの世逝ったの?」 肉まんを食べ終えて、指に張り付いた皮の残りを齧って取った。 何を言ったか知らないけど、数度言葉を掛けられた女は、たった1言を残しただけで笑って消えた。拍子抜けする程呆気なく。 「彼女?多分ね。割といい人だったよ」 本気で言ってるらしい。 どこがだと毒吐くカルノに気付くこともなく、ピザまんを頬張っていた。 勇吹には全く危害を加える気配がなかった。それは彼の神性に清められたのか宥められたのか。どちらにせよ本性を思い出したように人間に還った彼女は、勇吹にとっては普通の人間と同じだったのかもしれない。 けれど見ず知らずの奴を問答無用で絞殺する奴がいい奴なら、ダウンタウンにも騎士団にもゴロゴロしてる。 あいつら皆、いい奴か。 胡散臭そうに見詰められても全く気にならないようだ。 こんな宵闇の中でなくて青空の下だったとしても、多分それは同じ筈。 要は単に鈍いのか。 「いい奴か知んねーけど、すげぇ気持ち悪かった」 「そう?」 否定する勇吹の声音を聞きながら、残りのコーヒーを呷る。 気持ち悪かった。 自分に向けられた筋違いな恨みと妬心は不快だったが、それよりも、他人の生命を奪って自分のものに換えようとしているようで、その執着が無様だった。 今でも最上の価値を持つ女の潔さと、掛け離れ過ぎている。 どろりとしていて気色悪い。 「あーゆー未練を引き摺ってんのは好きじゃねぇんだよ」 彼女のことまで話す気はなく不機嫌に言うと、勇吹は彼へ首を傾けた。 「ふ〜ん。でもさ、未練なんて引き摺るくらい持ってて普通だと思うけど」 カルノは驚いて彼を見た。 ただ生きていたいとかやり残した事があるとか、離れたくない奴がいるとか。そういう未練はやっぱりあるのだろうと思う。あの女と違ってすっぱりと逝った彼女にしても、それはあったのだから。 けれど隣りの奴は死んでしまったらあっさりと仕方ないかと諦めて逝ってしまいそうで、未練を纏った姿など想像もつかない。 闇の中に白く浮かび上がった背中を思い描くのは簡単だった。瞼を閉じなくても見える。 さっと身を翻して、振り向きもせずにいくだろう。 伸ばしたこの手を知ってすら。 確信すらあるというのに。 「それってお前は普通じゃねぇってこと?」 だからそう言うと、勇吹は目を瞬かせた。 「俺の話?そんなのあるに決まってるよ。今だって学校行きたいし家族に逢いたいし」 他愛もないようで、けれど彼にとっての重要性の高さを知る少年は、慎重に表情を探る。 「…会いに行ったりすんの?」 勇吹は寂しそうに微笑んで首を横に振る。 「何で」 何で会いに来てくんないの? 「未練に際限はないから」 勿論生きている人にとって…なんてのもあるんだけどと言い添える勇吹の言葉を聞き流し、カルノは聞いた言葉が信じられなくて困惑する。 その顔を見た勇吹は笑みを更に深くして、見たことのない色を添えた。 「俺は欲が深いからね」 更に信じられない事を言う。 飄々としてるといえば聞き様はいいが、執着なんてなさそうに見える。 いつだってそよ風の中で1人で立って微笑むだけで、熱の全てを護るために使って。 護られるのは嫌だ。その他大勢になるのも嫌だ。 だから護ることを選んで、特別になったような気がした。 他の奴とは違う位置を確保した。 口の悪さも態度の悪さも俺のもの。 護る相手にはしないもの。 少しだけ、違う笑顔。 薄く色づいた特別が映えて。 これは、俺だけのもの。 でも、その手が伸ばされたことはない。 未練て、何? 際限がないくらい ……… どうしたらなれるの? 勇吹が微笑んだ。 どんなに目を凝らしてその笑みに隠された心を読み取ろうと思っても、街灯の明かりが照らした瞳に真意は見えなかった。目に映らないまま透き通る。 もう休憩は終わりとばかりに勝手にゴミを集めた勇吹が、それを捨てにコンビニへと向かった。ポケットに両手を突っ込んで夜の寒さに知らぬ振りして背筋を伸ばす。その後ろ姿はカルノの描くものにとても似ていて。 だから勇吹が戻って来ると、襟を掴んで引き寄せた。 口付けるより早く勇吹のキスが降って来て、その心が知れぬまま、カルノはひたすらそれを貪り食った。 冷たい唇が触れ合うとその奥はとても熱くて、まるで薄情で情深い誰かのよう。 とてもね 欲が 深いから 病院のあの人達は無事で 悪魔を滅ぼし 騎士団の面子を返り討って 家族もいて 彼も 側にいてくれて どんなに無茶でも その全てを望んで止まない 遠い空 知らない街のビルの狭間に 砂粒ほどの遠い影 髪の色さえよく見えず その距離が 怖くて 放り出された子供みたいに 早くあそこへ 心が急いた 今だけ と そのつもりだったのに ― 大丈夫になってきたよ ― 君がいると 折込済みで 手にしたものを手放せない どれもこれも誰かも彼も全て際限なく せめて一目と 会ったら終わり だから さっと身を翻して 振り向きもせずにいくだろう 思う存分その温度を味わって捕えた首と体を離してみると、勇吹はいまだにポケットに手を突っ込んだままで彼に触れもしていなかった。 縋りつけとは言わないまでも。 「…せめて手くらい出せねぇの?」 「やだよ、寒い」 冷たい言葉に、熱くなった息を吐いた。 透きとおる熱の強さを 彼は知らず 執筆:栖月 びぃ(Burn Bag B) |