モドル


散歩道



 ここよりずっといい所
 あるんだろうね

 そう言ったら、びっくりした顔をした。



 玄関を出て階段を下りていると、同じくらいの少年に会った。彼は勇吹の顔を見て、反射的に軽く手をあげ挨拶をくれた。驚きつつも勇吹もそれを返す。
 同じマンションの住人だという彼は高校生だった。
 あまり顔を合わすことはなくても、お互いそれなりに気になったりする。彼はまさにそんな相手だ。制服の、高校生。
 彼は俺達を何者なんだとか、どういう関係なんだと思っていたらしい。秘密だと言うと、仕方ねぇなぁなどと苦笑して誤魔化されてくれた。
 そういう所がクラスメートを思い出させて、懐かしくて少し嬉しかった。
 まだ全然日も高くて、というより真昼間で、彼はタルくてさぼったと言う。ふ〜ん、いいね、などと言ったら、どこがだと小突かれた。お前は行きたいんだろって、バレバレらしい。
 一緒に住んでいる彼ら以外とは滅多に話さないから、少し緊張しているのを頭の片隅で思った。
 マンションのロビーで別れると、先に出たカルノが待っていた。制服の彼を見て惑い、勇吹に目で問い掛ける。
「下の階の奴。階段とこでばったりね」
 気にした割に呆気なく背を向けて歩き出してしまう。無表情の下でどう解決したのか、彼には分かりようがなかった。伏せ加減の瞼は彼には珍しいものでなくて、意味があるのか計れない。
「これからガッコだってさ」
「ふ〜ん」
 気のない返事は今の時間も気にならないようだ。
 空を見るととても綺麗で、羽があったら飛びたい心地で色を数えた。けれど知ってる青が少なくて、それが残念で仕方なかった。美術の教科書に並んだ色見本のページが浮かぶのに、肝心のところがぼやけている。とても綺麗な青なのに。
 こんな日はどこまでも行きたいような気がする。
 そんなことを言っても出来っこないのも知っているけど、行きたい気持ちが分かる気がする。
 ここから逃げ出したいのではなく。
 何を求めるでもなく。
 ただ綺麗だと思う心が足を動かす。
 どこかに着いてしまうのが、ひどく惜しい。


 いつも何処かを見ている。
 遥けき何処か遠く。
 瞳の色を空に見つけてそれも然りと頷いた。
 地上を歩く姿は彼の本心でないと悟らせる。
 こんな所に興味はないと、気だるげに歩いている。
 この綺麗な青空を飛ぶならば、黒い翼も赤い髪も風を孕んで歓喜に踊るのか。その瞳は空のように輝くだろうか。

 往きたい気持ちが分からなくもない。


「どっか、行かない?」
 ぽつりとカルノが洩らす。
「このままどっか行っちまわない?」
 空を見上げたままで勇吹は答えず、カルノの唇が自嘲に歪む。勇吹の事情から考えれば、あのマンションから出て行く筈がないからだ。
「ここよりずっといい所、あるんだろうね」
 虹彩を少しだけ青く染めて、勇吹は空のように笑った。
 まさか、とカルノは目を見張る。
「でも俺はここにいるよ」
 言葉は優しく、“側にいる”とでも言うように。
 微笑みに、カルノはゆっくりと目を瞑った。
 瞼の裏で彼は誰かに笑いかけて、その誰かは、彼とは違ってひどくまともな。
「カルノ」
 目を開くと隣りには誰もいなかった。
 振り向いた時勇吹の姿は路地に消えようとしていて、瞬間合わせた目が笑んでいた。
 後を追うと、勇吹は日陰の中でカルノの目から姿を隠す。速度を緩めて彼が追いつくのを待っていた。
「こっちから行くと近道になってるんだって」
 誰かに聞いた口調が彼の何かを掠めて行った。
 眼が馴れてもカルノはいつまでも彼に追いつかず、彼もまた待つのを止めて足を速めた。
 路地から路地を抜けて、児童公園を越えて、また路地に入って、角を曲がると空が開けた。

 低い柵の向こうに一面の空。柵の下に群れる街。

 薄青い水に綿を薄く延ばして浸した空はスクリーンじみて彼らに広がり、薄汚れた茶色くて灰色の街並みは細密画となり空の青を切り刻んだ。
 高台になったこの場所からの光景にほんのひと時声を無くしたカルノを見遣って、勇吹が声を掛けた。
「ここから下りられるよ」
 階段を下りながらふと足を止めて、下りてくるカルノを勇吹は振り仰いだ。
 見返す彼に微笑んで、また階段を下りていく。


 ここも割といいとこだよね


 音にはせずに囁いた。
 飛んでは行けない少年は、彼がそう気付くのを願う。
 こんな風に、散歩しながら。


THE END.

執筆:栖月 びぃ(Burn Bag B)
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